天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)は、江戸時代中期に起こった飢饉で、寛永(1642‐1643)・享保(1732)・天明(1782‐1787)の大飢饉と並んで、江戸四大飢饉の一つに数えられています。
主な原因は天保4年(1833年)の大雨による洪水や冷害による大凶作で、東北地方の被害が大きかったです。19世紀前半は太陽活動が低調だったことに加えて、仙台藩士の花井安列が書き残した日記の1835年4月の項に、このところ日の出が赤い旨の記述があり、日本から見てほぼ地球の反対側にある中米ニカラグアにあるコシグイナ火山で同年1月に起きた大噴火による日傘効果による気温低下が冷害を悪化させた可能性が指摘されています。
50年前の天明の大飢饉と比較すると、凶作対策が行われていたため、死者の数は相対的に少なかったのでsぐあ、商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大していたため、貧困の百姓については餓死者がでました。
幕府は救済のために対策をうちましたが、米価急騰も起きてしまったため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、天保7年6月(1836年)に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、天保8年2月(1837年)に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなりました。