ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦を終結させた講和条約です。1919年6月28日パリ郊外のベルサイユ宮殿「鏡の間」で連合国とドイツとの間に調印されました。中国代表は講和会議に参加はしていましたが、山東問題の処理(ドイツから日本に権益を移管すること)に反対して、この条約に調印しませんでした。また、アメリカ合衆国議会は、のちにこの条約の批准を拒否します。この条約は、440条からなる大きなもので、そのため、この条約によって成立した国際秩序のことをベルサイユ体制とよびます。第一次世界大戦後の国際関係を規定した重要な意義をもつ条約となりました。
この条約によって、ドイツは海外植民地を失い(日本は山東半島の権益の他、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を獲得)、アルザス・ロレーヌをフランスに返還し、ヨーロッパにおいて領土を削減されました。また、第一次大戦の開始における戦争責任を断定されて、連合国の損害に対して賠償支払いを課せられ、軍備は厳しく制限されます。ライン川左岸は非武装地帯として15年間、連合国の保障占領下に置かれることになります。また、ザール地方は、15年間、国際連盟の管理下に置かれ、その後住民投票によってザールの帰属を決定することになりました。また、ベルサイユ条約の第一編は国際連盟規約であり、このことは国際連盟にこの条約維持のための機関という色彩を与えることになります。
パリ講和会議が、もっぱら連合国の利害によって一方的に運営され、この条約によってドイツへの圧迫も厳しかったことから、ドイツではこの条約を「命令」とよんで、大いに恨む気分が強くありました。これは後に、ナチスによって巧妙に使われて、ナチスの政権掌握の一因をなすことになります。
1920年代末から30年代初頭にかけて、ライン地帯から連合国が撤兵し、賠償問題においても賠償総額が軽減されるなど、事実上、ベルサイユ条約はなし崩しに修正されていきました。1935年にナチス政権がベルサイユ条約の軍備制限条項を一方的に破棄し、翌1936年ラインラントの非武装地帯を武装化するに及んで、この条約は事実上消滅しました。