ラジレキ

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刀伊の来襲

刀伊の来襲は、刀伊の入寇(といのにゅうこう)や刀伊の来寇とも呼ばれます。1019年に、女真族の一派とみられる集団(これを刀伊といいます)を主体とした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件。

この頃の日本海・対馬海峡周辺の北東アジアの情勢ですが、当時の中国東北部にいた女真系の人々は渤海国と共存・共生しながら、渤海国を通じて宋などに豹皮などを輸出していた交易活動をしていました。しかし、926年に契丹によって渤海国が滅ぼされ、さらに985年にはその渤海国の遺民が鴨緑江流域に建てた定安国も同じく契丹によって滅ぼされてしまいます。このため、10世紀前半の契丹の進出と交易相手だった渤海が消失したことで女真族の人々が利用していた従来の交易ルートが大幅に縮小することになりました。さらに991年には契丹が鴨緑江流域に三柵を設置して、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまったのです。こういった状況を打破すべく、女真族は高麗沿岸部への襲撃を活発化させました。

1005年に高麗で初めて女真による沿岸部からの海賊活動が報告されるようになり、1018年には鬱陵島にあった于山国がこれらの女真集団によって滅ぼされます。こういった流れの中で、1019年には日本の北九州にも到達。日本への襲撃もなされるようになったのです。

ただし、当時の女真族の一部は高麗へ朝貢していること、女真族が遠く日本近海で海賊行為を行った前例がないこと、さらに日本側に捕らわれた捕虜3名がすべて高麗人だったことから、権大納言源俊賢は、女真族が高麗に朝貢しているとすれば、高麗の治下にあることになり、高麗の取り締まり責任が問われるべきであるとの主張もありました。また『小右記(藤原実資の日記、藤原道長の「「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を記録していることで有名な日記)』でも海賊の中に新羅人(高麗人)が居たと述べられています。

当時の国際情勢の複雑さというのは、現代にも勝るとも劣らずですね。

ちなみに大宰府にあって、この刀伊の入寇で指揮をしたのは、藤原隆家という人物で、この人は藤原道長のいとこです。道長としてはライバル関係にあるわけですが、大宰府にいたのは左遷させられたからではなく、隆家は眼病を患っていて、大宰府に中国から来た名医がいるということで自ら希望して大宰府への赴任をしていたのでした。

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