林子平(はやし しへい)は、江戸時代後期の人物で、「寛政の三奇人」の一人(「奇」は「優れた」という意味)に挙げられている人物です。(あとは、高山彦九郎・蒲生君平)
幕臣の子として生まれた林子平ですが、色々あって仙台藩士となり、みずからの教育政策や経済政策を仙台藩上層部に進言するのですが聞き入れてもらえませんでした。そのため、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚しました。この全国行脚の結果、多くの知識人と交流しながら見聞を広め、ロシアの脅威を説く、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著しました。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書といえば聞こえはいいかもしれませんが、ようは「海防の必要性をきちんと理解していない、お上の政治はなっとらん!」ということですので、出版に協力してくれる版元を見つけることができませんでした。
そこで林子平は、16巻・3分冊もの大著の版木を自ら彫って、自費出版しました。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることになったのです。しかし、林子平は、その後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後世に自著を残したのでした。
最終的に、仙台の兄の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処されます。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。やっぱり「奇人」と言えるでしょうね。
寛政5年6月21日(1793年7月28日)死去。享年56。しかし、彼の海防論は非常に的を得ており、明治15年(1882年)、正五位を追贈されることになったのでした。