ラジレキ

要点から背景まで、流れでおさえる日本史の全体像

日本史の学び直し.com

  • 日本の夜明け
  • 大和王権と古墳文化
  • 古代国家の成立
  • 権力闘争と貴族の時代
  • 武士階級の台頭
  • 武家社会の動揺
  • 動乱の戦国時代
  • 幕藩体制の始まり
  • 発展する経済・文化
  • 揺らぎ始める幕藩体制
  • 明治維新と近代国家の形成
  • 脱亜入欧、日清・日露戦争
  • 第一次世界大戦
  • 第二次世界大戦
ラジレキ

陸軍の抵抗をうけて総辞職

陸海軍は1907年に策定された帝国国防方針に基づいて、当面は陸軍が二個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻の増艦を要求していました。しかし、内閣総理大臣・西園寺公望は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針を採っていました。

1912年8月頃から、陸軍省(上原勇作陸軍大臣)と内閣(政友会)の間で、この二個師団増設を巡っての対立が深まってしまいます。藩閥勢力の長老でもあり、陸軍における最大の権力者である山県有朋は増設を求めており、また陸軍内の強硬派は、これを機に西園寺内閣を倒閣して、寺内正毅(当時・朝鮮総督)を首班とする陸軍主体の内閣を立ち上げることを計画しました。

ただ、山県有朋は内閣の意向や世論の反発を無視して増設を強引に推し進めることには慎重であり、また桂太郎の政界引退により桂園体制が終焉した後の政友会との関係性を図る意味合いもあり、二個増師が不可能なら軍備充実、部分的増軍、一年延期などで妥協することも考えていました。

このため、内閣のメンバー且つ陸軍の現役である上原勇作・陸軍大臣は、陸軍内部の突き上げと増設反対の内閣・世論の板挟みとなってしまいます。

11月29日、陸軍内の妥協的な動きを受けて、一旦は師団増設の撤回を表明しますが、政界復帰を模索する桂太郎および、薩摩閥の復権を企図する海軍有力者らは、この問題がこじれれば政友会との連携が崩れて自らに有利に作用すると考え、師団増設の訴えを押し通すように上原陸相を焚きつけるのです。

翌日11月30日の閣議では、上原陸相は翌1913年度からの師団増設を強硬に要求しましたが、不採用となります。12月2日には、上原陸相は帷幄上奏権(軍事のことは直接天皇に上奏することができる権限)を利用して、単独で大正天皇に直接辞表を提出してしまいました。

その後、後任の陸軍大臣を陸軍が出しそうもない(軍部大臣現役武官制のため、陸軍の現役軍人じゃないとダメ)情勢を踏まえ、12月5日、第2次西園寺内閣は総辞職しました。

関連する学び直しノート