日本政府はイラクによるクウェート侵攻が発生すると、1990年8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定し、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の翌1991年1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行いました。
かなり巨額の資金拠出をしましたが、クウェートが戦後に参戦国などに対して、『ワシントンポスト』に掲載した感謝広告には、日本は含まれませんでした。また、アメリカでの凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられました。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の村田良平に急遽折りたたみ椅子が与えられましたが、扱いの差は歴然でした。
こういった経緯もあり、日本は資金援助だけでは国際貢献として認められず、やはり「汗をかく」(人的貢献)ことが重要であるとPKO協力法の成立に動くのでした。