壬午軍乱(じんごぐんらん)または壬午事変(じんごじへん)は、1882年(明治15年)、朝鮮の大院君(だいいんくん・テウォンクン、当時の朝鮮国王の実父)らの煽動を受けて、朝鮮の首府漢城(現在のソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱です。
朝鮮国王高宗の王妃閔妃を中心とする閔氏政権は、開国後、日本の支援のもと開化政策を進めて近代的軍隊を新設しました。しかし、新軍建設に伴って財政出費がかさんでしまい、その皺寄せが、旧軍兵士への俸給の遅配や不正支給などが発生して、反乱のきっかけとなりました。
反乱が起きると、閔妃は王宮を脱出し、反乱軍によって閔氏政権が打倒されて大院君政権が復活しました。
日本が反乱の鎮圧にてこずっている間に、清国もまた朝鮮の宗主国として属領保護を名目に軍隊を派遣。反乱軍鎮圧に成功した清は、大院君を拉致して中国の天津に連行、その外交的優位のもとで朝鮮に圧力をかけ、閔氏政権を復活させました。
さらに清国は朝鮮政府に外交顧問を送り、さらに李鴻章子飼いの袁世凱を派遣。袁が事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握しました。この乱により、朝鮮は清国に対していっそう従属の度を強める一方、朝鮮における親日勢力は大きく後退したのでした。
なお、日本も勢力が後退しつつも、乱後に閔氏政権と交渉して済物浦条約を締結。賠償金の支払い、公使館護衛のための日本陸軍駐留などを認めさせました。