1968年春、チェコスロヴァキア社会主義共和国の第一書記にドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を掲げ改革を開始。その動きは「プラハの春」といわれ、民主化運動が一気に広がりました。この動きを、複数政党制や自由経済など、社会主義の根幹の否定につながる危険なものとととらえたソ連のブレジネフ政権は、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍を動員、同年8月20日に、プラハを制圧して押しつぶしたのです。
1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したのですが、これに対抗する武装勢力によってほぼ全土が反共産主義勢力の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請。ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入をしたのでした。しかし、このアフガニスタンへの侵攻はその後、泥沼となり、ソ連の威信・国力に大きなカゲを落とすことになったのでした。