北京議定書(ペキンぎていしょ)は、1901年9月7日に北京で調印された、義和団の乱における八カ国連合軍(日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ロシア・ドイツ・オーストリア)と清・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書です。
この議定書では、公使館周辺区域の警察権を列強国が握り、また、海岸から北京までの諸拠点に列強国の駐兵権が認められるといった、清朝領域内でその国権が否定され、列強国が統治する地域が生ずる内容が含まれていました。しかし、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得ませんでした。
また、北京議定書では、4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という賠償金が清朝に課せられました。この当時の清の年間予算1億両足らずだったので、とんでもない額ですね。この賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されてしまいました。
この賠償負担は、その後の中国の歴史に大きい影響を与えました。
莫大な拠出によって、その後の改革(光緒新政)の施策を限定せざるを得ないこととなったり、
侵略を防ぐためとして投資対象が軍備優先となったために、北洋軍の総帥である袁世凱の権勢をさらに増大させることとなったり、
また、改革遂行のためにさらに列強国や外国資本銀行の借款に頼り、外国への依存を更に強めることになりました。
さらに当然、賠償負担は、民衆へは税の増額という形でのしかかり、民衆は更なる困窮にあえぐこととなって、清朝への不満が高まることになったのです。この賠償金は1912年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国にそのまま負わされ、中華民国政府が中央政権として軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなりました。
第一次世界大戦前後から賠償金の緩和は行われましたが、結局1938年までに6億5千万両が列強国に支払われ、ようやく賠償が終了しました。