三浦の乱(サンポのらん)とは、1510年に朝鮮の東南部にあった日本人居留地の総称である「三浦」で発生した、対馬守護宗氏と恒居倭人(朝鮮居留日本人)による反乱です。15世紀、宗氏は三浦を拠点に朝鮮と通交していましtが、朝鮮にとってこうした通交は多大な負担だったため、次第に制限を加えていきました。対馬という島の領主であった宗氏にとって、朝鮮との通交は重要な財源でしたので、通交の制限は受け入れられるものではなく、両者の間に確執が生まれていきます。また、三浦に居住している恒居倭の増加に伴い様々な問題が生じ、朝鮮は恒居倭に対しても強硬な姿勢で臨むようになっていきました。こうした中で蓄積された日本人の不満が1510年に三浦の乱という形で爆発しましたが、朝鮮に鎮圧された。その結果、三浦居留地は廃止され、通交も大幅な制限を受けることになりました。
ざっくり用語解説
三浦の乱
関連する学び直しノート
2度の元寇と困窮する鎌倉武士
鎌倉時代は、承久の変以降、比較的安定した時期となりましたが、海外ではチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が大きく成長していました。チンギス・ハンの孫フビライは、日本に朝貢を要求し、日本はこれを無視したことから、モンゴルの襲来を受けることになります。 元寇:元の襲来とその背景 元寇勝利の代償|武士たちの困窮 武士救済のための永仁の徳政令とその影響 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #16
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政|天皇中心政治の復活と武士の不満の高まり
鎌倉幕府の弱体化が進み、後醍醐天皇は足利尊氏ら武士の協力を得て、倒幕に成功し、建武の新政を始めていきます。 しかし、建武の新政は武士に十分な恩恵がなかったことや急進的な改革であったことから、多くの人々のの不満が高まり、3年で終わりを迎えます。 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政 天皇中心の建武の新政とその失敗 足利尊氏の反乱と南北朝時代の始まり 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #17
南北朝時代の動乱と室町幕府の権力確立
後醍醐天皇と足利尊氏の対立によって、日本は南北朝に分裂し、60年間の動乱が続くことになります。 室町幕府3代目将軍である足利義満は南北朝の合一に成功し、守護大名の勢力を押さえながら、明との勘合貿易も推し進めました。 南北朝の動乱と幕府の内部抗争 足利義満による南北朝の合一 明との国交回復と勘合貿易 歴史年表だけでは語り尽くせない彼らの野望、戦略、そして後の時代への影響を、ラジレキが独自解説します。
06.武家社会の動揺 #18