日中平和友好条約(にっちゅうへいわゆうこうじょうやく)は、1978年8月12日、北京で日本国と中華人民共和国との間で1972年の日中共同声明を踏まえて、日本と中国の外交関係の発展のために締結された平和条約です。
内容は1972年9月に国交回復した時の日中共同声明の文面を基本的に踏襲したものとなっています。
第1条で主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉を記述し
第2条で反覇権を謳い
第3条で両国の経済的、文化的関係の一層の発展を述べて、
第4条でこの条約の第三国との関係について記されています。
なぜ1972年の国交回復から平和条約交渉が妥結するのに6年もの時間を費やしたかというと、「反覇権」条項と「第三国」条項で論議を巻き起こしたからです。
まず、「反覇権」とは、ソ連を牽制することです。中国側の対ソ戦略としての「反覇権」条項を含めたいと中国が主張したのです。当時は中ソ対立が激しい時代であり、「ソ連との対立の論理」が明白な「反覇権」を文言の中に入れるように強く主張しました。しかし日本政府は北方領土問題を抱え、日ソ平和条約を視野に入れてソ連と交渉を進める立場から、この「反覇権」条項を日中平和条約に入れることには難色を示したのです。
日本としては、「この反覇権は、特定の第三国(ソ連)に向けたものではない」「日中の共同行動(ソ連を共同で敵視する)を意味しない」と中和する妥協案を提示しました。しかし、中国では国内情勢に不安があり、毛沢東は漏水が進み、周恩来は闘病中という状況でした。そのため、交渉がなかなか進みません。
1976年に毛沢東・周恩来が相次いで死去すると、鄧小平が実権を握ると状況に変化が訪れ、交渉が進み、
最終的に懸案だった第三国条項について、「第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と表現します。
反覇権条項については「アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても、覇権を求めるべきでなく……いかなる国または国の集団による試みにも反対する」と明記されました。
1978年8月に北京で締結。10月には日本の国会でも批准されました。