法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争です。日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などとも呼ばれます。
日蓮没後、法華宗(日蓮宗)は京都以外の全国各地への勢力拡大に努めました。1294年に法華宗の当時のリーダーである日像が京入りすると、比叡山の訴えを受けた朝廷によって幾度か京都を追い出されたり、許されたりを繰り返されましたが、やがて朝廷からの公認を得て、室町時代にかけて次第に人々の間に法華宗が広がっていきます。
戦国時代の天文年間(1532年~1555年)になると、京都では六条本圀寺などの法華宗寺院を中心に、法華宗が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていました。そんな中、天文元年(1532年)に、浄土真宗本願寺教団の門徒が入京してくるという噂が広がります。この勢力を追い払うために、時の12代将軍足利義晴と法華宗は強力して浄土真宗を追い払うことを決めました。
浄土真宗は、当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に山科本願寺を京都布教のための拠点として設けており、この寺院は土塁に囲まれた伽藍と寺内町を有していましたが、幕府と法華宗はこれを焼き討ちして全焼せしめました。
この後、法華宗は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、幕府に対する地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大したのでした。