保科正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。会津松平家の祖です。第2代将軍・徳川秀忠の子どもではあるんですが、正妻の子ではなく、3代将軍・徳川家光の異母弟です。生まれたときには、「嫁にバレたらやべぇ」と恐妻家の秀忠がビビり散らかしたので、正之の出生については秀忠側近の数名のみが知っていて、早々に保科家に養子に出されたのでした。正之は、その後長じて徳川秀忠の息子だと知られて、松平姓を名乗ることを許されても、保科家への恩を忘れずに修正保科姓を通し続けました。3代将軍・家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きを成しました。また、領国経営も非常に巧みで、正之が移封された際には、元の領民たちが地元から逃げて、正之の新領地の方に押しかけてきたという記録が残っています。その数、なんと3,000人。上からも下からも愛された人物でした。