「足尾銅山の鉱毒事件(あしおどうざん の こうどくじけん)」は、19世紀後半の明治時代初期に栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件です。足尾銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となって、国に問題提起するものの、加害者決定はされませんでした。
加害責任が認められたのは、なんと1974年(昭和49年)5月11日。この日の調停で「100年公害」と言われた足尾銅山鉱毒事件の加害者をついに古河鉱業と断定、加害責任を認めさせたのでした。足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年の東日本大震災の影響で、渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。