狩野探幽(かのう たんゆう)は、江戸時代初期の狩野派(江戸狩野)の絵師。狩野永徳の孫です。早熟の天才肌の絵師と評されますが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作りました。
慶長17年(1612年)、駿府で徳川家康に謁見し、元和3年(1617年)、江戸幕府の御用絵師となり、元和7年(1621年)には江戸城鍛冶橋門外に屋敷を得て、本拠を江戸に移しました。江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作し、山水、人物、花鳥など幅広い題材を使った作品を多く残しましあt。
探幽の画風は後の狩野派の絵師たちに大きな影響を与えましたが、彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちによる模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となったとも評されています。そのため、近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられてしまいました。しかし近年、その真価が再評価されてきています。